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フリデリク・ショパン――ポーランドの自由詩人

23.03.2023

160年前の1863年9月、一月蜂起のさなか、ロシア軍はワルシャワのザモイスキ宮殿を破壊し、室内に置かれていたかつてフリデリク・ショパンが弾いたグランドピアノを建物の窓から投げ落としました。この瞬間は歴史に残されました。

Artur Szklener

フリデリク・ショパンの音楽は、彼の楽曲が印刷機から世に出る前から、すでに愛国的な連想をかきたてていました。ワルシャワで最も名門の寄宿舎監の息子である彼はすでに、夕べになると歴史的主題について即興演奏を行い、またパリ時代の彼のサロンの客たちは彼の書いた長詩を聴くことができたのです(紙に書き写されたのはその一部分にすぎませんが)。彼の作品の民族的・愛国的特徴はポーランド人によってのみ読み取られるものではありませんでした。早くもそれに注目したのは、若きショパンを国際舞台で最初に批評したロベルト・シューマンです(ショパンの「ピアノ変奏曲 作品2」について「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と叫んだのは、ほかならぬ彼でした)。ピアノ協奏曲の批評のなかで、十一月蜂起の文脈で、次のようにショパンを特徴づけています――「こうしてあたかも1830年、西欧に諸国民の声が響きわたったとき、ショパンは自分の芸術の深い知識をそなえた上に、自分の力を充分に意識した。一分の隙もない颯爽たる武者ぶりで登場した。当時は実に何百という青年が、この時の到るのを待ちになっていたのであるが、ショパンは晴れの舞台の上に立った前駆者の一人だった。(……)こうして、時代やいろいろな関係が有利にかさなっていたうえに、運命は、ほかの者にさきんじてショパンに名声と興味を与えるために、ポーランドという非常に独特な国民性を、彼に授けた。(……)もし北方の強力な専制君主(ツァーリ)が、ショパンの作品にはマズルカのような簡単な曲の中でさえ、危険な敵がひそんでいることを知ったなら、音楽などきっと禁止されてしまったろう。ショパンの作品は、花のかげに隠された大砲である」(吉田秀和訳)。クルピンスキが作曲した蜂起歌「リトアニア女性」の残響(作品49)やポロネーズの「英雄的」編曲(作品53)は聴くとすぐに読み取れるものでした。

ショパン自らが、愛国的な情熱の証左を多数残しています。1830年蜂起の勃発は、彼の音楽様式の転換点になりました。まさにそのとき――友人たちはほとんど力づくで、帰国して戦おうとする彼を押しとどめました――、彼は夜ごと「ピアノに向かってあたりちらし」(関口時正訳)、暗い響き、荒々しい対照、長調・短調様式の古典的簡素さを解体するような数多くの半音装飾(フィギュレーション)を導入しはじめました。家族が伝えるところによると、まさにそのとき「革命」と呼ばれる練習曲ハ短調や荒々しいスケルツォロ短調、長い年月を経た後にバッハの「平均律クラヴィーア曲集」を援用した連作作品28の一つとして出版される、前奏曲二短調が生まれたのです。

ショパンはまた地政的状況に深く通じており、その最良の証左は1848年4月のユリアン・フォンタナへの手紙です。その中で例えば次のことを書いています――「我らが同胞はポズナンに集まっている。チャルトリスキは最初にそこに向けて出発したが、事態がどのような道を通って展開するかは、神のみぞ知る。(……)恐ろしいことが起こらないはずはないだろうが、その最後に待っているのは、素晴らしい大ポーランド、つまりは『ポーランド』だ」

1863年9月(作曲家の死後14年)、一月蜂起参加者によるフョードル・ベルク将軍への暗殺未遂への復讐として、ロシア軍がワルシャワのザモイスキ家宮殿を滅茶滅茶にしたとき、そこにあったグランドピアノの破壊が象徴的意味を持つことになるとは誰一人思いもしませんでした。若いころパリでショパンの知己を得たツィプリアン・カミル・ノルヴィトは、この瞬間を永遠に留め、それを有名な詩「ショパンのグランドピアノ」の中で、文化と価値体系の衝突のレベルにまで引き上げました。これは、ショパン作品を独立闘争の言説に導き入れる重要な作業であり、それをおそらくは最も読み取りやすい形で明らかにしたのが、イグナツィ・ヤン・パデレフスキによる名高い作曲家ショパン生誕100周年記念演説、ついでに言えばやがてポーランド政府首班となる彼の政治参加への道を開くことになる演説です――「ショパンの中には、私たちに禁じられていたもののすべてが根を下ろしている――色彩豊かな民族服、金の刺繍のある帯(……)、士族のサーベルの響き、我らの農民鎌の輝き、傷ついた胸の呻き、囚われの魂の反抗(……)、屈従の痛み、自由の悲しみ、暴君の罵倒、勝利の喜ばしき歌」第二次世界大戦中ドイツ占領当局が彼の作品の演奏を禁じたのは、ほかならぬそのためなのです。

今日、21世紀ポーランドにおいて、ショパンの音楽は相変わらず特別の場所を占めています。5年ごとのショパン・コンクールの間、数百万人のポーランド人がコンクールの結果を追いかけ、ワルシャワではフィルハルモニー・ホールからタクシーまで、彼の音楽があふれます。しかし今日私たちはまた、ショパン作品の類稀の普遍性も理解しています――その天才あればこそ、彼の音楽は全世界の人々の心に届き、真実と美を愛好する国際社会の建設を助けているのです。

アルトゥル・シュクレネル

音楽学者、大学教員、文化イベント・マネージャー、2012年より国立フリデリク・ショパン研究所所長

本稿はポーランド国民記銘院とポーランド国立財団との歴史企画の一つとして、ポーランドの月刊誌「最も大切なことのすべて」と協力して発表されました。

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